先ほどの凄まじい叫び声が響いた医務室。
何度も続いたその奇声はしばらくすると収まって、今は典医が桶やら布やらを片付ける音がしているだけだった。
がここに連れてこられたのはまだ昼間のことだったけれど、すでに日は暮れ、あたりは本当に静かだった。
壺から直接消毒液をぶっかけられたは叫ぶだけ叫んでジタバタして、
疲れもたまっていたのか、包帯を巻いている途中で眠ってしまった。
典医はあいかわらず白いひげを揺らして笑っていた。
「先生、入りますぞ。娘はどうです?」
静かに入ってきたのは張遼。
どうやら司馬懿も張遼ものことはおおっぴらにしていなかったようで、今日医務室を訊ねてきたのはやはり張遼だけだった。
理由はなんだかよく分からないけれど、はきっと疲れているのだろうと踏んだ気遣い。
これが天然できるのだから、女性陣としてはたまらない。
堅物の張遼に人気があるのは、十中八九このせいだった。
「ふむ、治療の間は叫んでおりましたが、数が多いだけでひとつひとつは軽い傷でございましたよ。
これだけ元気な娘です、明日には普通の生活が出来ましょう。傷跡も残りゃしますまいよ」
「そうか、良かった。・・・よく眠っているようなので、私はこれで」
「・・・そうですなァ、どうせ明日にはこの娘の噂も広まっておりましょうし、今日くらいはゆっくり休ませてやりますかねぇ」
二人は小さく笑いあうと、安らかに眠るを見た。
女性にしては短い髪だとか、艶のある肌や形の良い唇。
敵だとは疑わせてくれないなんともいえぬ雰囲気が、にはあった。
けれど初対面で司馬懿に蹴りを入れた恐ろしい娘、という噂はもう一部には囁かれていて、きっとこの静寂も長くは続かない。
張遼は典医に一礼すると、医務室を出て行った。
「む、そういえばあの娘の名、まだ聞いていなかったな・・・」
出たあとに引き返すのも気が引けたし、別に明日聞けばいい。
張遼は歩みを止めなかった。
「ほれ娘さん、もう朝じゃよ。今日は恐らく忙しゅうなりますぞ、早く起きて支度をなされ」
「むァー?・・・おはようごじゃいましゅ・・・って夢だと思ってたのに!!」
翌朝、典医に起された。
しばらくボンヤリしていたも、長い夢を見ていたというほのかな期待をぶち壊されてまた叫んだ。
耳元で大声を出された典医はたまらず耳をふさぐ。
の頭をぺしっと叩くと、何も言わずに体中の包帯を取った。
そして傷の具合を見ると、満足げに笑う。
「よし、これなら人前に出ても大丈夫じゃろ。さぁさっさと服装を整えなされ」
「・・・はぁ、分かりました」
どうもこの医者には従わなければいけない気がして、は大人しく横にきちんと畳まれていた制服に袖を通した。
が首もとのスカーフを巻き終えたと同時に、医務室の戸が鳴った。
どうやらそれは女官らしく、典医はこれを待っていたようで、すぐに返事をした。
戸を開けた女官は深々と礼をして、を外へ出るよう促した。
もちろんは意味が分からなかったけれど、医者もそうしろというので革靴を履いて女官についてゆくことにする。
大事なことを忘れていた、気付いたときはもう遅く、女官はズンズン前へ進んでゆくし典医は戸を閉めてしまうし、八方塞。
「あの、すいませんここ何処ですかってゆうか何処に行くんですかァァァァ!!」
・・・完全無視だった。残念。
連れて来られたのは大きな扉の前だった。
ごってりした装飾の施されたその扉は重そうに立っていて、その両側にはもう二人の女官が控えていた。
多分この扉を開ける係りなんだろうとは予想したけれど、このままいくと向こうの部屋に入るのは自分ということになる。
それが分かると急に緊張というか、焦ってしまう。
きっと張遼はいるだろうけれど、それなら自動的に司馬懿もいるということにもなる。
自然に顔が引きつった。
けれどそんなの空気はまた見事に無視されて、「さぁさぁ」と女官はの肩を押す。
グイグイと押されて、はドンドン扉に近くなってゆく。
ふんばったが、女性相手に本気になったら自分は絶対に倒れない、むしろ女官のほうがバランスを崩して怪我をしてしまう。
そう思うと中々力が入らなくて、とうとうは押し負けた。
・・・と、ここまでは良かった。
なんと両側に居た女官がここぞとばかりに扉を開け放ち、が身体を支えようと伸ばした手の行き場をなくしてしまったのだ!
「無理無理無理無理、
顔から真正面は無理ィィィィィ
!!!!」
こうなってしまってはどうにもこうにも・・・。
しかしなんということかはとっさに右足を前へ出し、踏み込みの要領でどうにか踏ん張って見せた。
ありえないほどに痛そうな音が響いたけれど当のは大丈夫そうで、1メートル以上開いた足を元に戻して立ち上がった。
自分が部屋中の注目を浴びていることに気付くまでに、それほど時間は掛からなかった。
自分を取り囲むように壁際に立つ、勇壮な男性に美麗な女性。
意味が分からずキョロキョロしていると、意外と近くに張遼が居て、奥のほうに司馬懿が立っているに気づく。
張遼は笑いをこらえているし、司馬懿は昨日と変わらず不機嫌そうだ。
「・・・どっ、どうもおはようございます・・・」
とにかく何か言わなければと慌てて口に出したのは、何の変哲もない朝の挨拶だった。
けれど他に何を言っていいのか分からない。
下手なことを言ってしまうよりは無難だった。
「・・・プッ」
誰かが噴き出した。
もちろん一度噴出してしまったら止まるはずもなく、ずんぐりとした髭面が乱れた。
それに誘われたように部屋中でクスクス笑いが始まり、結局笑っていないのは司馬懿だけ。
あとはその動きが大きいか否かだけで、全員が肩を揺らしていた。
流石に「おはよう」はなかったか、とが後悔していると、初めに笑い出した男がズンズン近寄ってきた。
「おまえ、なかなか面白い女だな!!俺は夏侯淵、字は妙才だ。女、名は何だ?」
ゲラゲラと笑いながら歩み寄ってきた夏侯淵には何か人好きのする雰囲気があって、はホッとしたように顔を緩めた。
「あ・・・あの、です。はじめま「夏侯将軍、安易に近づいてはならぬ!!」
夏侯淵に言われるまま自己紹介をしたの肩に、夏侯淵の手が乗せられる寸前だった。
鋭い声が響いて、夏侯淵はびくりと身体を震わせて振り返った。
広間にいる他の人間も、その怒号の主へ視線を向ける。
そこにはやはり、司馬懿。
いつもの数倍は険しい顔をして、を睨んでいた。
さっきまで少なからず和んでいた広間の空気も、一瞬にして凍りついた。
「その娘、出自が全く分からぬ。油断していては命取りですぞ。
さぁ、顔を見るという目的は果たされたはず、さっさとこの娘を城から追い出すべきですな、曹操様!?」
ツカツカと前に出ると、司馬懿は羽扇でを指した。
すごい勢いでまくし立てて憎々しげな目でを見ると、広間の奥に座る曹操に言う。
夏侯淵もさすがにたじろいで、すすっとから離れていった。
せっかく向こうから歩み寄ってくれたのに、その人さえまた遠くなってしまったのに心細くなってしまったは、
必死の思いで張遼へ目を向けた。
その張遼は苦笑いといった感じでを見ていたけれど、と目が合うとゆっくりとうなずいた。
「と言うたな、娘」
「はっ、はい、です!!」
もう一度元気よく、二重丸の自己紹介。
は椅子にふんぞり返る曹操という男に視線をやった。
彼は司馬懿の騒ぐのに目もくれず、片肘をついてを楽しげに見つめていた。
「くくっ・・・おかしな娘よ・・・。
儂は曹操、字は孟徳という。この乱れた蒼天で最も強大にして絢爛なる国・魏を統べる男だ。よく覚えておけ」
そう言ってニヤリと口元を歪めた曹操は恐ろしいなどとは程遠く、は平静を取り戻した。
張遼よりも、もちろん司馬懿なんかよりずっと偉いのだろう魏という国の長は、立ち上がってに歩み寄った。
蒼天の意味も、まして魏など知るはずも無いだったけれど、曹操にそれらしい威厳と、畏怖を感じていた。
立ち姿にさえ風格と言うものがある。
目の前に立たれたは少し硬くなって、曹操を見上げた。
一国の王と立って頭の高いまま謁見することなど到底かなわないこの時世に、
そうした態度を何の臆面もなく取り続けるが珍しかったらしい。
曹操はの頭のてっぺんからつま先までジロジロと観察すると、一際楽しそうに笑った。
「なかなか可愛げのある顔だな。よし娘、面白いからしばらくここに滞在するが良いぞ!」
「え、本当ですか?良かった、助かります!!」
滞在を許した理由が少し気になるところだったけれど、は曹操のお言葉に甘えることにして緊張を解いた。
それに続いて周りの人間も一気に和やかになった。
・・・しかしやはり、誰か反対する者はいるものだ。
言わずもがな、司馬懿。そして夏侯惇。
曹操の言葉にしばらく呆然としていた司馬懿は、夏侯惇が止めようと前に出るのをきっかけに我に返り、叫んだ。
「孟徳、お前物好きもいいかげ「なりませぬぞ曹操様!!その女、極めて凶暴ゆえ何をしでかすか分かったものではありませぬ!
興味がおありなのはよろしいが、滞在許可を下されるなど、許容いたしかねます!!」
司馬懿の甲高い声は、それは見事に夏侯惇を遮った。
耳をつんざくような叫び声がただの私憤だらけ私怨だらけだということは、もう誰しもが分かっていること。
遠駆けに出た司馬懿が謎の少女にやられた、と・・・噂は静かに、しかし確実に広がっていたのだ。
「司馬懿、たかが蹴り落とされたくらいで大人気ない。もっと落ち着くが良い。
夏侯惇もそうカッカするな。ホレ見ろ、この頼りない娘を埋伏の士とでも疑うか?」
とうとうの肩を抱いてしまった曹操は、広間の人間全てに同意を求めるように言った。
がもし本当に刺客だったとしたら、この時点で曹操の胸に刃が突き立てられたことだろう。
けれどもちろんそんなことはなく、うまいこと丸め込まれてしまった司馬懿と夏侯惇は渋々引き下がり、の滞在を認めることになった。
女好きモートクばんざぁい(´∀`)
振り回され気味な惇と私怨ばっかりでちっとも冷静じゃない司馬懿が今回の見所です(え