ゆっくりと、はひとりで歩いていた。
心配顔の甄姫と別れて、ふらふらと。
子犬を追いかけて、どういうわけかこんなところに来てしまった。
張遼や夏候淵、甄姫、そしてやたらめったら度量の大きい曹操に歓迎されたのは嬉しかったし、少なからず安心した。
けれど、今はもう、夢見がちだった自分に気づいてしまった。
ここは、自分が居て良い場所ではないのだ。
途方に暮れた。
「おお娘さん、謁見はどうだったかね?曹操様は楽しい御方であったじゃろ?」
「・・・はい、とても」
うろ覚えではあったが、医務室に辿り着くことはできた。
典医はにこやかにを迎えたが、打って変わって真っ暗なに面食らって、それ以上話しかけることができなかった。
枯れ葉のように医務室に舞い込んで、それ以来は、寝台に丸まって一言も口をきかなくなってしまった。
典医は親しげにあげた手を下ろし忘れ、ついでに笑顔もしまい忘れて、しばらく固まっていた。


それから数日、は医務室の寝台の上で過ごした。
もともと重い怪我ではない。
体中についた擦り傷切り傷の類は、もう痛むことすらないだろう。
それでも、は寝台から出られなかった。
自分の体重を支えてくれる硬い寝台が、今のにとって、唯一の拠り所となっていた。
典医が粥を勧めてくれたが、それがどれだけ薄い粥だろうと、喉を通らない気がして断った。
水さえもあまり口にせず、ずっと体を横たえていた。
眠っていれば、どうしようもない息苦しさに気づかないふりができた。
眠っていれば、ここがどこなのかも思い出さずにいられた。
眠っていれば、もう二度と会えないかもしれない両親と、友人と話ができた。
眠っていれば、あのかわいらしい子犬と・・・。
けれど、目が覚めてしまえばすべて夢。
2,3日はずっと眠っていられたが、いつまでもそうはいかない。
そのうち少しも眠れなくなった。
硬い寝台。
薬のきついにおい。
聞きなれない修練の声。
どれもこれも、自分を追いやろうとしているようにしか思えなかった。
それでもは知らないふりをして、これは夢だと思い込むことに徹した。
これは自分の平凡だが幸せな毎日に一石投じた、奇妙な夢だと。
次に目を覚ませばそこはいつもの自分の部屋で、忙しい両親とあわただしく朝食をとって。
そんな甘い妄想にとりつかれて、は夢と現実をゆらゆらと漂った。
目を閉じて、何も見えないふり。
耳に手を当てて、何も聞こえないふり。
眠っているのかも起きているのかも自覚できない、ぐにゃぐにゃとした世界の住人になった。
何度か張遼たちが見舞ってくれたが、の反応は薄かった。
頭の先も覗かせず、体をもぞりとうごめかせるだけ。
最初のうちは「もうしばらく様子を見ましょう」と柔軟な姿勢を見せていた典医だったが、
この調子では、が本当に重病人になってしまう。
どうしたものかと典医が頭を抱えだしたころ、医務室に珍客があった。
「し、」
典医はといえば、その珍客に口をぽかんとさせるばかり。
普段から不機嫌そうな顔をさらに凶悪にした珍客は、ふんと鼻を鳴らしながら医務室へ足を踏み入れてきた。
典医はあわてて決まり文句を投げる。
「司馬懿、どの。その、どこか悪くされましたかな?」
あからさまに病弱そうな顔をしている司馬懿は、実のところ健康そのもので、今まで典医の世話になったことはあまりない。
今日はいつにも増して凶悪な面相ではあるが、一見してみれば体調が悪いわけではなさそうだ。
しかし、まさかの見舞いと言うことはあるまい。
ならばやはり体調不良か・・・。
典医はそう踏んだのだが。
「フン、この私が体など壊してたまるか」
このとおり、けんもほろろである。
司馬懿はそのままずかずかと奥に入り込んで、が眠る寝台の前に仁王立ち。
典医がそれを追う。
「起きろ、この馬鹿めが」
えらく高圧的に言った。
そうはいっても、本人にその自覚はないのだが。
しかしもちろん、からの反応はこれといってない。
当たり前だった。
はこの世界を、現実をすっかり放棄している。
すでに、ちょっとやそっとでは帰ってこられない位置まで沈んでいた。<>br そこに飛び込んできた神経質な声を、は拒絶した。
「起きろと言うのが聞こえないのか!」
「し、司馬懿どの、」
典医が止めるのもきかず、いらつきを隠しもせずに、司馬懿は掛け布を剥ぎ取った。
しわだらけになった掛け布はあっという間にどこかへ行き、の体が冷たい外気にさらされる。
その腕を司馬懿はつかみ、寝台から引きずりだす。
久しぶりに自らの体重を支えたの足は、驚いて膝から崩れ落ちる。
何が起こったのかも理解できずに、はぼんやりした顔のまま、見上げる。
そこには司馬懿の顔。
目の前にあるその顔が、現実と夢とを明確に分けてしまう。
理解、させられてしまう。
「く」
すっかり頬がこけ、宙を泳ぐの視線に、司馬懿は眉根を寄せる。
強気にも自分を侮辱したあのときの顔と、同一のものと思えないほどにか細い。
白くなった唇が動く。
乾燥した喉が、音を出す。
「・・・いや」
司馬懿が二の句を告げられないうちに、の口がぱくぱくと動く。
「しらない」
拒絶の言葉が、かすれて。
「やめて、しらない、しらない」
焦点の合わない目と震える体。
司馬懿と典医は痛々しいその光景を、ただ見下ろしていた。








司馬懿はいわゆるツンデレです、ツンデレ。
もっともっとデレてほしいのがほんとうの心持です(笑)