我が魏軍が、蜀と呉の連合軍によって多大な損害を被った赤壁の戦からのち、私は合肥へ赴くこととなった。
合肥城に駐屯する将兵の数はこの要所を護るには頼りなかったが、それはこの城の堅固さで、おそらくはなんとかなろう。
曹操殿のおわす都も遠くはない。
援軍が来るまでなら、この張文遠が守りきって見せよう。
この広い合肥城の主に任じられ、張家にずっと仕えてきた使用人たちも、私について引っ越した。
わざわざついて来ずとも良いと言ったのだが、彼らは断固として聞かなかった。
この乱世で主から離れることは、露と消えても有り得ませんと主張する彼らに、胸が熱くなったのを今でも憶えている。
合肥城に住むことになって数週、やっとここでの生活にも慣れてきた。
ここへ移るまでの生活とはほとんど変わらぬ雰囲気は、以前からここに住んでいた錯覚に陥らせてくれた。
しかしひとつだけ、明らかな変化があった。
「お勤め御苦労様でございました、殿」
必要以上に広い自室に入ると、一人の女が恭しく礼をした。
薄く、光沢のある衣装に身を包んだその女は、くどくない程度に化粧をして、髪を無造作に結っていた。
まだ20になるかどうかと言っていたその女の容姿には、どこか色や艶というものがあった。
澄んだ瞳に、涼しげな口元、白い手足。
初めて会ったときには、いったいどこの姫君かと疑ったものだ。
「・・・今夜は良い、下がりなさい」
「今夜も、でございましょう。わたくしはまだ、一度も自分のお勤めを果たしたことはございませんよ」
彼女の横をすり抜けながら言うと、逆にぴしゃりと言い返された。
情けないが、ぐうの音も出なかった。
しかし彼女の言い分を聞き分けるわけにもいかない。
「だから、私は妻でもない女にそのようなことをさせる気はないと言っているだろう!」
・・・彼女・は、私の奥小姓だった。
普通、小姓というのは少年のやることで、確かに処理をさせたこともあったし、解放されないときは何度か抱いたこともあった。
そんな役目をまさか、こんな美しい女が。
「それではわたくしが叱られてしまいます。それに奥方様もいらっしゃいませんのに、そのようなこと」
こう口が強くては、まったく敵わない。
しかしに私の小姓として働かせることは、どうしても我慢ならん。
爺たちも、私の性格を知り尽くしているはずなのに。
どうしてまた、わざわざ女を奥小姓などに・・・。
私は毎晩、この部屋で私を待つを追い返していた。
そうすると、周囲の人間からのへの心証が悪くなるとは思ったが、どうしても駄目だ。
ただ抜くというだけに留まらず、もし子でも出来てしまったらという思考に至らずにはいられぬ。
このような美しい娘だ、主というだけで身篭らせてしまえば、その親は黙っていないのではないか。
色々な心配と不安が渦巻く。
周りに、今まで女を小姓にしたことのある者が居ればよかった。
・・・まったく、心労が絶えない。
「もしや殿、わたくしの身を案じておいでですか?」
「ばっ・・・当たり前だ!!!」
今日に限って食い下がるに向かって、つい大声を出した。
馬鹿者、と言いかけて、耐えた。
「もし孕ませてみろ、小姓の女の責任など、私には取れんのだぞ!!」
「殿、わたくしは抱いてくださいとは言っておりません。ただお手伝いをと」
「それもならん!!!」
あぁもう、なんでお前はそんなに冷静なんだ。
眉の一つも動かさずに私を見上げるは、寝台へと近づいていった。
そしてその際にスッと座ると、凛とした瞳で私を見る。
今日こそ、このまま押し切られてしまう・・・そんな気がした。
「お願いでございます。もしお許しを頂けないのであれば、今ここでわたくしを斬り捨ててくださいませ」
「なんだと?!」
たかが小姓の仕事をするかしないかで、一体何を。
しかしそう言ったの目に、何かいつもと違う光が浮かんだのは、見逃しようが無かった。
その瞳を真っ直ぐに見てしまっては、いくら戦に長けた私でも、どうしようもない。
戦場で見る武人のそれとは逆だが、あるいはそれよりもよほど強いの目は、私をしっかりと見つめていた。
「・・・わたくしは、元は漢王朝に仕え、曹操様に帰順したある名家の一人娘でございました」
赤く色づいた唇から紡ぎ出される耳に心地良い声が、突然話し出した。
何を言っているんだ、というのが正直な感想だった。
が私を見る目は、嘘をついていない。
ということは、正真正銘の姫君ではないか。
しかし自負できるほどの名家の娘が、何故一将軍の奥小姓などに・・・。
誰かの妻、というなら、まだ納得できるものだが。
その私の疑問に気付いたように、は続けて口を開いた。
「しかし父は、わたくしを嫁に出す前に、亡くなってしまいました・・・先の、赤壁の戦のことでございました」
そういえば、赤壁である家の当主が戦死したと聞いた。
そして後継者の居ないその家は、亡くなったとか・・・。
普段は軍師としての役割を担い、天幕に残って戦場には出ないその男は、逃げ遅れて焼け死んだのだ。
まさかその男が、の父だった?
だとしたら、なんと気の毒な。
「わたくしが武や知略に秀でていたならば、家を継ぎました。
しかしわたくしが授かった才といえば音楽だけ。そんなものでこの乱世に武家を保つことは、不可能でございました。
確かな後ろ盾も無いわたくしの家は、なんともあっけなく失われてしまったのです」
そこまで言って、はギリと唇をかんだ。
声が出なかった。
いつも気丈に私を押し切るこの女に、そのような過去。
深い悲しみは女を美しく見せるというが、そんなことで増す美などいらないと、これほど強く思ったことは無い。
「そこでわたくしは、生前に父が褒め称えておりました、張文遠さまにお仕えすることに決めました。
執事さまがたの勧められるままに・・・奥小姓として」
・・・やってしまった・・・。
授業中に友達と回してた手紙からできた小姓物語。
誰の小姓になりたいかとか、書いてた。授業中になにやってたんだ。
見つからなくて良かった(笑)
シリーズ化します。