入ってきた劉備に、姜維と月英は深々と頭を垂れて、道を開けた。
その後に続くのは白衣の男、諸葛亮。
それが彼の基本ポーズなのか、羽扇で口を隠している。
が立ち上がろうとすると、劉備がそれを止めた。
の体が寝台にストンと落ちるのを確認すると、の顔を下から覗き込むように膝をついた。
その場にいた誰が、このような光景を予想しただろう。
蜀の国主ともあろう劉備が、何処の馬の骨とも判らぬただの娘に、ひざまずこうとは。
「私は蜀漢の王、劉玄徳。良くぞわが国へいらした、心から歓迎致しますぞ、天におわす戦女神よ」
頭を深く、深く下げて、劉備はに礼をした。
そのとき丁度、窓から西日が差し込んで、そのシーンは妙に神々しく、厳かに見えた。
異国の奇妙な衣装に、黒く美しい髪、白い肌、そして清廉な容姿。
その娘にひれ伏す人徳の人。
まるで幻想を見ているような、初めての、感覚。
自分の体がゾクリと震え、何か途轍もない衝撃が身を貫くのを、姜維は感じた。
「私は諸葛孔明、蜀の丞相です。・・・劉備様は、どうしてもあなたが天女であられると仰いましてね。
詳しく事情をお聞かせ願いたいのですが」
もしが本当に戦女神で、蜀に遣わされた天女なのだとしたら、
屋内の会議室の上の方から、劉備の膝に落下したのもギリギリ許せる範囲だが、生憎はただの女子高生だ。
まさか天女だのなんだのと呼ばれて、冷静で居られるはずが無い。
「ちっ、違います!!私が天女だなんて・・・」
急いで否定したは、諸葛亮の視線から逃げるように下を向いた。
立ち上がった劉備の代わりに、今度はが膝をついた。
見ず知らずの自分をこんなに大切に扱ってくれた劉備に、黙っているわけにはいかない。
嘘だと思われても仕方ない、言うしか、ないのだ。
「今から私が申し上げる事は、全て真実でございます。・・・信じて頂けずとも、私は決して劉備様に嘘は申しません。
それを前提として、お聞き下さい」
身体に染み付いた仰々しい言葉遣い。
まさかこんな所で役に立つとは、思ってもみなかった。
「・・・分かった、心して聞こう」
部屋に緊張した雰囲気が充満する中、劉備の了承を得たが話し出す。
自分の名、何処でどのように育ったか、何故、ここへ来たのか。
きっと信じてもらえない。
その前提がの頭にはあった。
いくら劉備といえど、ここまで奇天烈な話を黙って聞いてはくれないだろう。
何より、その隣で目を光らせている諸葛亮だ。
冷静な眼差しで、を観察している。
しかし劉備と諸葛亮、そして姜維と月英も、何も言わずにの話を聞いてくれた。
「ふむ・・・まさか、そんなことがあり得るとは・・・」
が淡々と話し終えると、劉備を始め、全員が息を吐いた。
「・・・ですから私は、劉備様が仰る天の遣いなどでは・・・」
「まぁ、良いのではないか?」
皆が声を出せない驚きに居心地が悪くなったの声を、劉備がさえぎった。
全員の視線が劉備に集まり、も顔を上げた。
「どちらにせよ、何の偶然かは知らぬが、お前はここへやってきた。それも私の膝の上に、だ。
ここまで偶然が重なれば、これもう定めとしか言えん。ただの娘だとしても、お前にはきっと何かあるのだろう。
慣れるまでは月英や姜維、そしてもちろん私にも頼れば良い。
阿斗の世話でも、料理でも、何をしても良い、ここに居なさい。ここはお前のもう1つの家だ、」
言うと、劉備はの肩をやさしく叩いて、ニコリと笑った。
それが良かったのだろうか、部屋の雰囲気はすっかり変わった。
劉備に促されて立ち上がって、はもう一度、深々と礼をした。
「お言葉、ありがたく存じます・・・」
少しだけ、声が震えた。
異世界に飛ばされ、たった独りでいるときにかけられる優しい言葉が、これほどまでに身にしみる。
は必死に平静を保ち、肩を抱いてくれる月英に笑みかけた。
そしてその夜更け、は姜維の部屋を訪れた。
迷うことなど無い、すぐ隣だ。
兵法書を読みふけっていた姜維は、突然の来訪者に驚いて、戸を開けた。
そこには、自分の貸した淡い青の部屋着でたたずむ。
少し長い袖をたくし上げた姿が可愛らしい。
照れた様子のは、言い辛そうに、なにか口をモゴモゴさせていた。
「えっと、あの、鍛錬用の武器、持ってませんか?剣でも槍でも、何でも・・・」
「え・・・?あ、あぁ・・・今ちょうど全部折れてて・・・いや、ちょっと待って、確か・・・」
姜維は申し訳なさそうな表情を浮かべ、一変して部屋の奥へ消えた。
山のように積まれた書簡を押しのけ、細長い箱を取り出すと、寝台の上に広げた。
そして戸の前で立ったままのを招き入れる。
「この弓を差し上げよう。私がこのように立派な弓を使っても、ただの宝の持ち腐れだし。
が使っていた弓よりは、少し短いけど・・・」
昼間より自然に話してくれるようになった姜維が取り出したのは、黒塗りの弓だった。
手にするだけで優れた弓と判るそれは、よく手に馴染んだ。
こんな良いもの貰えない、とが断るのを、姜維はことごとく無視して、箱もに押し付けた。
(・・・どうすれば、良いでしょうか、師匠)
師匠、と父を呼んで、は弓を愛しげになぞった。
スタン、スタンと澄んだ音が響いて、矢は目にも止まらぬ速さで、木に吸い込まれた。
夕方、月英と姜維が案内してくれた訓練場に、の姿があった。
この時間、もちろんそこにいるのは1人だ。
(劉備様はああ言って下さった。伯約も、この弓を・・・けれど)
ダンッ・・・。
またもう1本、木の幹に細長い枝が増える。
いつ元の世界に戻れるかわからない。
いや、帰れるという保証でさえも、既に無いのだ。
一体自分の身に何が起こったのだろう。
確かに特殊な家庭環境で育ちはしたが、ただの女子高生のはずだったのに・・・。
なんにしろ、早急に身の振り方を決めねばならない。
ともなれば、には1つしか選択肢は残されていなかった。
最後の1本の矢、覚悟を決めるように、放った。
一際研ぎ澄まされた音が響く。
は、自分が突き刺した10数本の矢を全て抜き去ると、矢筒へ戻して訓練場を後にした。
そしてその直後、影から出てきた1人の老翁。
彼は、の標的となっていた木の下へ歩み寄った。
ふと足元には、信じられない光景。
「これは・・・まさか、あの娘が・・・?」
弓を貰いました。
姜維贔屓でごめんなさい確信犯ですウフフ。