あの宴からしばらくして、は馬に乗れるようになった。
すぐにトップスピードにのれるようになったし、多少なりとも馬上で戦えるようにもなった。
これなら、戦場で足手まといになることも少なかろう。
しかし、先行きは不安。
いまたちは、遠い地においてきた民を迎えにいった、その帰りだ。
課せられた使命は、民の護衛。
いつどこから、魏に追撃されるか分からない状況なのだそうだ。
も、それは分かっていた。
イヤでも目立つ民の大移動。
敵に見つからないはずが無い。
・・・そう、このままいけば、長坂で追いつかれるのだ。
武のあるものが、総出で民を守り抜かねばならない。
のデビュー戦も、その長坂になるだろう。
実際に戦へ出るとなると、矢張り体が冷たくなった。
溢れかえる殺意を相手に、民を守り、劉備を守り、そして死んではいけない。
関羽に勝ったとはいえ、あれは勢いとスピードで押し切っただけのこと。
一度に何人もの武将を相手にして、ああ上手くいくとは思えなかった。
「?寒いなら、肩掛け貸そうか」
後ろを行っていた姜維が、馬を横に並べた。
が自分の肩を抱いて震えたのを見ていたらしい。
しかし寒いのは精神的なもので、もちろん肩掛けなんて必要ない。
は礼を言って、姜維の申し出を丁寧に断った。
すると姜維は、しばらく隣を進んでくれる。
「・・・・・・私もそうだったよ」
唐突に言う。
が姜維を振り向くと、姜維は優しげな笑みを浮かべていた。
「私も初陣のときは、とても怖ろしかった。今まで安穏と生きてきたのが、急に死へ近づくみたいでね。
・・・きっとのことだから、長坂での戦を避けられないのは気付いていると思う。
それに、苛酷な戦いになるだろう事も・・・」
何も言わずとも、ここまで分かってくれる。
このような人が、家族やわずかな友人以外に、いただろうか。
しかもその人々でも、長年付き合ってきた結果に得られたもの。
会って数日の姜維が、まさか。
は耳を疑った。
自分を見つめるに、姜維は"でも、"と続ける。
「将である私達が、不安な顔をしてはいけないんだ。
もしそれを見られれば・・・悟られれば、私達に頼る以外に無い民は、兵はどうなる?
初陣から将として出なければならないのには同情する。
しかし将たる以上、数え切れない人間の命を背負っているという自覚を持ちなさい。
それが私達の責任だ。君なら分かるはず・・・そして出来るはずだよ、」
スッパリと言われて、は姜維を見つめる。
こうして強く言われた方が、気持ちが揺らがずに済むから有難いのだが。
まさか姜維がそれをかってでるとは、思っていなかった。
なんだか安心して、は、自分の体から余計な力が抜けていくのを感じた。
しかし一方、隣を行く姜維の心中といえば、大荒れの海。
キリリとした表情を保ってはいるが、本当はかなり泣きそうだ。
(どどどどどどうしようちょっときつく言い過ぎた・・・うわぁぁもう私の馬鹿!朴念仁!!役立たずゥゥゥウウッッ!!!)
穴があったら埋まりたい、壁に頭を打ち付けたい、池があったら沈みたい。
最上級のネガティブシンキングが、姜維の頭を駆け巡る。
馬から落ちないようにするだけでも、一苦労だった。
しかしが"ありがとう"と言って笑うと、それだけで姜維に平常心が戻る。
本当は戦場でも、こうして隣を駆けてやりたかった。
が持っているのは、自分が上げた黒帝だけ。
いくらが全ての武器を扱えて、体術にも長けているとは言うものの、姜維は不安を拭いきれない。
武芸を極めたといえど、今現在、一番死ぬ確率の高い武将は、だ。
気付いているのは自分だけかもしれないが、姜維には自信があった。
"はまだ、人を殺す覚悟が出来ていない"
それはそうだ、太平の世で生まれ育ち、自分が人の命を奪うことなど考えもせずに生きてきたのだから。
逆に、ためらいなくボロボロと人を斬られたら、人格を疑う。
しかしはそんな人間ではないと、この数日間一緒に過ごして分かっていた。
そんなに、敵将の誰がやられようか。
なんとかして、を補佐してやりたかった。
せめてが戦場に慣れるまで。
殺める覚悟の、つくまで。
中央の橋の死守を任されたと、諸葛亮と共に火計を指揮する自分。
遠くは無いが、守るにはあまりに遠すぎる距離が、恨めしかった。
「私は隣で戦ってあげられないけれど、その黒帝が、、きっと君を守る」
姜維はそう言うと、の背にある黒帝を指差した。
美しく黒い弓は、その言葉に答えるように、きらりと反射した。
「危ない、もう駄目だと思ったら、軍を退いておいで。私が必ず喰い止める」
「・・・でも」
それでは火計に支障が、と続けたに、姜維は笑った。
曲がりなりにも私は天水の麒麟児だよ、心配ない、と。
「・・・だから必ず、生き延びなさい。敵将の首を取る必要は無い。
劉備様や民が逃げ切るまで、魏を足止めすれば、それだけで良いんだ。
そして城へ戻ったら、そこで思う存分弱音を吐いて良い。私がずっと、聞いてあげるから」
姜維はもう少し馬を近づけて、の頭をくしゃっと撫でた。
撫でられたのは久しぶりで、妙に照れくさくて、はこくりとうなずくだけだった。
姜維がやけに頼もしく、凛々しく見えて、余計に。
そこでちょうど、張飛が防衛を務める橋まで辿り着いた。
ここで、軍は3つに分かれる。
この橋と中央の橋を守り、敵を抑える殿軍・火計部隊・劉備と民を守りつつ進む本軍。
が自分の持ち場・中央の橋へ馬を向けた矢先だった。
「申し上げます!!」
息も絶え絶えに、1人の兵がやってきた。
伝令用の駿馬からずり落ちるように地に膝をつくと、周りの視線がその兵に集まった。
まさかもう魏軍が、と将や民が顔を曇らせる中、の頭に、ひとつの記憶が浮かび上がった。
長坂の戦いの代名詞とも言うべき、あの人。
「阿斗様と御夫人が敵軍の中に取り残され・・・趙将軍が、単騎で敵本陣へ突入なされました!!!」
ついに初陣です。
残念ながら夫人には史実どおり、井戸に身投げしてもらいます。(なんでそうゆうこと言うの)