紅くぼんやりと浮かび上がっている輪郭。
窓から差し込む強い西日に目が眩む。
さっきまで曇っていたから気にならなかったけれど、こうなるとどうも、閉めておけば良かったと思う。
しかしこの西日のお陰で、この部屋の空気が妙に神々しく、引き締まって見えるというのは確か。
はっきりとしない視界で、しかし私の目の前に居る娘は、事実、天に住むという神のごとく映った。
これは、この世に在って良い光景なのだろうか。
思えば私は、もうこの時から・・・。
武将としての豪胆さ、華やかさだけでなく、女性としての儚さや強さを併せ持つあの娘。
ひどく頼りなく見えたあの背中。
全て覚悟しきったのだろう芯の強さ。
頼られるだけ頼られて、頼り方を知らないかわいそうな子。
放っておけない。
しかし理屈で説明のつくものではないから、理由など聞かれても困る。
一言で言い表せてしまうくせに、とても複雑な情。
"駄目だと思ったら軍を引いておいで、私が喰い止める"
かの長坂で、私は偉そうなことを言ってのそばを離れた。
心の内で、守ってやらねばと思いながら。
しかしそう思うなら、少しでも心配なら、意地でもへばりついてやらねばならなかった。
の人となりを考えてみれば、軍を引くなどしようはずが無い。
無理をしてでもギリギリまで持ちこたえて、孟起殿の到着を待つことは分かりきっていた。
それなのに私は何故、放っておいたのか。
私が居なくても、火計にはさして支障なかった。
しかし私が居れば、があんなに無茶をすることもなかったのに・・・。
体中にこびりついた血や、急所は外れていたものの、数え切れない切傷。
酷い熱にともなう汗。
砂埃にまみれてドロドロになったを見ると、どうしても自責の念にさいなまれた。
普通初陣を迎えた武人に、たった1人で軍を任せるなどしない。
なのにには、関羽殿をも凌ぐ絶世の武と、全幅の信頼があった。
おかげであの異例の軍配置。
そしてその上阿斗様・奥方様が取り残され、と同所を守るはずだった子龍殿の離脱。
民の移動には細心の注意を払っていただけあって、かなりの衝撃だった。
丞相の予想だにしなかったこの事件。
しかし誰も、を手伝おうとはしなかった。
心配はしていながら、矢張り"なら何とかなるだろう"という安易な判断があったのだ。
戦がそう簡単にゆかぬと、身を以って知っているはずの私たちが。
いつも動じることのない丞相でさえも、こればかりは悔しげでいらした。
突然の事件、事態の誤認。
そしてそのせいで、娘のように思っていたが危険に晒された。
どれだけお気に病まれたことだろう。
私とて悔しかった。
誰か1人でも気付いてやらねばならなかった。
が、すすんで人に頼れないということ。
無理矢理にでも引き出してやらねば、涙をさえ流せないということに。
「怖かった。もう駄目、死ぬんだと思った・・・!!」
子龍殿や他の将と比べれば、まだまだ頼りない私の胸で崩れていった、の虚勢。
私にすがりつくは驚くほどに小さく、弱々しかった。
たった独りで異世界へ飛ばされ、親しんだ人々と突然に引き離された。
私とて、天水に残してきた母を想うことはあれ、きっちり別れの挨拶も交わしたし、会うことも不可能ではない。
しかしこのは・・・どれだけ、哀しかろう。
「帰って来れて良かった。みんな無事で良かった」
私の口から出る言葉はどれも月並みで、こんなもので慰められるものか疑わしかった。
けれどそれが心からの気持ちだった。
こんな言葉でが楽になるのなら、いくらでも言おう。
この、不安に足を絡め取られた女神が、救われるなら。
・・・せめて私にだけでも、頼り切ることが出来るようになるのなら。
ふと、左腕の包帯が目に入った。
もうすっかり血も止まり、傷口もほぼ塞がったらしい。
しかし、長坂から逃げた船上で目の当たりにした鮮血の布が、今にも蘇る。
またいつか、この包帯が・・・が、朱に染まることになるだろう。
改めてそう思うと、薄寒くなる。
この世で戦に出るならば、血を見ぬのはありえないこと、けれど。
私にもたれかかって眠り込んでしまった、の安らかな顔。
壊すわけには・・・否、壊したく、ない。
あの優しく、暖かな笑みを守るためなら、なんでもしよう。
そう思ってを見ると、その寝顔はあまりに幼く、安心しきっていた。
普段との差が激しすぎて、少し笑えた。
「・・・ゆっくりお休み」
こんなに安らかに眠っているを起してしまうのは気が引けた。
ゆっくりと、静かに寝台へ横たえる。
薄手の掛け布をしてやると、は小さく身じろいだ。
けれどよっぽど深く寝入っているのか、目を醒ますことは無かった。
邪魔にならぬよう髪を払ってやると、白い顔が晒された。
広くも狭くもない額を撫でても、反応は無い。
瞬間、その滑らかな額にくちづけたい衝動に駆られた。
いけない、駄目だ、落ち着け・・・!
何度もそう言い聞かせて、深く息を吐いた。
数回深呼吸をすると、何とか冷静になってくる。
「・・・参ったな」
傍らの椅子に座りなおすと、物音がしなくなった。
誰かがコッソリ鍛錬する様子も無い。
・・・静かだった。
厚手の掛け布を被る。
わずかな衣擦れの音が、驚く程よく響いた。
私の脳裏に浮かんでいるのは、夕焼けの部屋。
女神と称された異界の娘・と、その前に膝を折る仁の人・劉備様。
正に女神降臨と言うにふさわしい絵だった。
人の血を知らない戦女神は、ここに降り立った。
死も間近に感じたことの無い、娘が。
長坂では敵将の撤退のお陰でまぬがれた。
しかしこれより先、戦に出るならば、いつか。
いや、もうまもなく、あの清らかな娘の手は、他人の朱で穢れる。
あの娘がすすんで戦場に在る以上、避けられぬこと。
私は何もしてやれない。
もしが殺めたとき、私が何を言ってやれば、どうしてやれば。
・・・もどかしさばかりが募る。
しかしこれもどうせ杞憂に終わり、その時が来れば予定や計画など、ブチ壊れてしまうのだ。
もう、考えるのはよそう。
ただがその命を絶やすことの無い様、祈る。
もう一度"お休み"と言うと、眠りに落ちた。
翌朝目を醒ましたのは、が起きたのと同時らしかった。
「昨日、ごめんなさい。ありがとう」
第一声がそれだった。
私はむしろ、が泣いてくれたのが嬉しかったのだよと、言いかけてやめた。
ただ、笑って"おはよう"とだけ言った。
はそれに少し驚いたようだったが、すぐ返事をくれた。
「私、もう怖くない。寂しいけど、ここに居る人は、みんな味方だものね」
言って、晴れやかに笑った。
ようやく昇り始めた朝日に、ひときわ目映く。
ああ、この顔だ。
これなら心配ない、殺めたとて壊れはしない、強い光だ。
孟起殿はを"戦う為に生まれてきたような娘"と言った。
けれど私には、確かに戦神というのもそうだったが、もっと尊いもの。
戦女神であり、しかし平和や、安穏の神でいて欲しいと思えた。
もし乱世が終わって、戦場に立つ必要の無くなって、それでもがここに居るなら、この蜀の護神として在ってほしい。
部屋を出て行くの背中を見て、強く思った。
共に戦場を駆け、無事を喜び、そして蜀に・・・劉備様に、天下を。
そしてできるならその時、私の隣に君の姿のあることを。
「・・・一目惚れなんて、信じる方じゃなかったんだけどなぁ・・・」
誰にも聞こえない様に呟いた。
・・・本当、参った・・・。
ついにやったぞ、姜維独白。
書いてるうちにどんどん青臭く気障になっていってほんと恥ずかしかった。
使う言葉とかにはかなりこだわりあるんだけどなぁ・・・orz