「あそこの川岸で、少し休みましょうか」
陸遜が指差した先には、大きな川があった。
堤防の補修工事の折にも思ったことだが、は日本の川との違いがあまりに大きいのに驚いていた。
川幅は広く、緩やかに流れる水が、とても偉大に見える瞬間。
もう日は頂点まで達していて、しかし大河の周りは何故か空気が爽やかに感じられる。
たちは次々に馬から下りた。
「んんーっ、気持ちいい!!」
葵花の下馬を手伝った後、はググッと大きく伸びをした。
また大きな声を出して、はしたない、と葵花は言うが、やはり彼女も笑っていた。
女官という立場上あまり城から出られない彼女は、敵国にまで近侍するという危険な仕事をも楽しんでいるようだった。
そうしているうちにと葵花の馬は、それぞれ姜維と関羽に連れられて、川で水を飲んでいた。
5頭の馬は旨そうに喉を鳴らしている。
一旦荷物を下ろされた馬たちの動きは、心なしか軽かった。
は馬を撫でると、自分も手を水に浸した。
「わ、冷た」
澄んだ水はの手を歓迎して、波紋を広げて流れてゆく。
穏やかな表情でそれを見送ったは、隣に立った陸遜を見上げた。
陸遜は照尖の庵への途中で見せた意地悪そうな顔とは打って変わって、にっこりと笑って見せた。
ああ、これに哀れな人々は騙されるのだ。
「ふふ、よほどこの自然が珍しいと見えますね?」
「だって、山篭りの修行のときくらいしかこんな風にできないからね。
それに私の国の川はこんなに大きくないし・・・私はこういう大河の方がずっと好き!」
「そうですか。気に入って頂けたようで、僕も嬉しいですよ」
今はハイキングだと割り切ってしまって気を緩めているも、様子の変わった陸遜を気にもせずに満面の笑みを返していた。
敵国への先発隊という未来を左右する大切な旅であったが、そうとでも思わなければ不安で仕方ない。
はポジティブな思い込みに見事成功していた。
あまりに警戒心の薄れた佑妃の笑みを目の当たりにして、陸遜は少し驚いたようだったが、また優しく微笑み返した。
煌めく大河の岸にその2人という構図はとても絵になっていて、なんとも穏やかな光景だった。


しかし1人表情を硬くしているのが姜維だった。
姜維は、優しげな陸遜の笑みの裏を知っていた。
人好きのする美しい微笑の貼り付いた、奥底にあるその真実の顔を。
自分よりも年下のくせをして、もう女性の扱いを心得ていると見える陸遜をこのまま野放しにするのは・・・危険だった。
しかし具体的にどう行動していいのか、姜維は考えあぐねていた。
あまり神経質にを囲おうとすれば怪しまれ、相手を遠ざけようとしても訝しまれる。
男性としても、そしてもちろん軍師としても経験の浅い自分が厭になりそうだった。
しかしこの不甲斐無い自分に課せられた使命は本当に重要で、失敗は許されない。
それなのにこの使命の成功は自分の実力ではなく、自身の感情に掛かっている。
これほど不利な任務を、姜維は他に知らなかった。


、おなかは空かないか?少し冷めてしまったけど・・・」
「あ、ちょうど空いてたところ!ありがとう」
考えて考えて考え抜いた結果が餌で釣る作戦だった。
苦し紛れのその策に見事に引っかかったはパッと立ち上がって、姜維のほうへ駆け寄った。
は姜維から肉まんの入った包みを受け取る。
そして一瞬迷った後に葵花の隣に座り、2人で肉まんを食べだした。
そこに同じように弁当を持って関羽も加わり、和やかな団欒が始まる。
以前の堤防工事の昼食をほうふつとさせる風景だった。


「随分な猫なで声でお話になるんですね、あなたは。意外です」
「私は元々こういう口調ですよ。お気に召しませんか?」
「いえ、別に。もっと邪険な雰囲気をまとっていらっしゃった様に思いましたので」
何もなかった様に平然としている陸遜に、姜維が言う。
陸遜は今までと話していたときと同じ表情で応答した。
完全に陸遜の演技を見破っている姜維には、その顔は憎らしい物にしか見えない。
そう離れてもいないところでそんなやり取りが行われていることなど知りもせず、はニコニコしながら肉まんをほおばっていた。
関羽まで一緒になって笑顔だ。
仲の良い親子か、祖父と孫娘か。
「伯約、陸遜、こっち来て一緒に食べよう」
ひらひらと手を振って呼んだは、2人がこっちを向いたのを見て、満足げに笑った。
「ええ、頂きます」
ふとを振り返った陸遜は、これまた甘い笑顔を浮かべて手を振りかえしていた。
そしてもう一度姜維に向き直ると、意地悪そうに笑った。
「・・・お可哀相に姜維殿、女神様に惚れておいでなのですねぇ。私に奪われるのでは、とでもお思いですか?
フフ、その心中、お察しいたしますよ・・・ではお先に」
耳元で囁いた声は確かに陸遜のもので、しかしの前でのそれとは正反対だった。
そら寒い、見透かすような口調。
もちろん、『お気に召す』ものではない。
姜維は、自分の表情がゆがむのをこらえた。
しかしそうさせた陸遜本人はすぐに猫を被りなおして、のもとへ歩んでいた。
ク、と息を吐いて、姜維もそれに続く。

(・・・くそ。想像以上に面倒な相手となりそうだ)

まだはっきりと網膜に焼き付いている、あの陸遜の微笑。
いまだ鼓膜を揺らし続ける、あの声。
全てがまた新しく、姜維の重荷となった。
心の中で悪態を吐いて、姜維も団欒に加わった。




それから数日、一向はひたすら馬を呉へと向け、歩き続けた。
途中で雨に降られたりといったアクシデントもあったものの、それも1日足止めを喰らっただけですんだ。
可もなく不可もなく、旅はもうすぐ終わりを告げる。

「・・・さぁ、着きましたよ。ここが呉の都です」







うはぁ・・・陸遜が怖い。自分で書いていながら怖い。
頑張れ姜維。能天気なヒロインをヘソ出しアイドルから守れるのは、君だけだ・・・。